2012/11
科学者 マリー・キュリー君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ 1]


 創価女子短期大学の中庭に建つマリー・キュリー。アメリカの実業家ジョージ・ブラスナー氏夫妻から寄贈されたもので、建学の指針の一つ、「社会性と国際性に富む女性」が念頭にあるように思われる。

【参考文献】
 キュリー夫人伝(エーヴ・キュリー著河野万里子訳白水社)、マリー・キュリーの挑戦(川島慶子トランスビュー)、キュリー家の人々(ウージェニイ・コットン杉 捷夫訳岩波書店)、マリー・キュリーが考えたこと(高木仁三郎岩波書店)
 日本科学技術の旅・新シリーズ、女性編の最初にはマリー・キュリーに登場してもらおう。
 日本の先覚的女性科学者たちが受けた差別やいじめ、圧迫などはヨーロッパやアメリカの女性科学者たちも経験し、それはマリー・キュリーほどの科学者も別扱いではなかった。
 マリー・キュリーをキーワードで示すと、世界で最初の女性ノーベル賞受賞者、世界で最初の2度のノーベル賞受賞者、夫婦揃ってのノーベル賞受賞者、ソルボンヌ大学最初の女性教授、フランスで最初の女性博士号取得者、ノーベル賞受賞者の母などなど、輝かしい経歴が並ぶ。しかし、栄光の科学者も実生活や研究生活では限りない苦労があり、それを乗り越えて勝ち取った栄誉であった。ここでは特徴的なことを取り上げてみたい。

 ■民族的圧迫
 マリー・キュリー(ポーランド名マリア・スクォドフスカ)は1867年にポーランドで生まれた。日本では明治維新の前の年である。この年、ポーランド王国は消滅した。
 ポーランドは14世紀から17世紀まで大王国を形成しており、この時代の著名人としては地動説のコペルニクスがいる。しかし18世紀以降3度も国が分割されて、第1次世界大戦後の1918年にようやく復活した。マリー・キュリーの小学生の頃はロシアの支配下で、公用語はロシア語。学校ではロシア語しか認められず、両親や私塾で母国語を習った。
 ■男女の差別
 姉妹は中学校を優等で卒業したが、女性がさらに学ぶ上級学校は無かった。兄がワルシャワ大学に入学したが、教授はロシア人かロシアにへつらうポーランド人たちで、“ロシア皇帝の大学”と揶揄されていた。女子は入学が許可されないので、マリーは家庭教師をしながら移動大学(地下組織)で物理・化学を学んだ。
 ■貧乏生活
 下級貴族出身の父も大学教授職を追われて生活も苦しくなり、姉ブローニャのフランス留学の学費を稼ぐために妹のマリーが家庭教師をした。われわれの常識からいえば姉が生活費を稼いで妹を留学させるのだが、マリーは自分は未だ若いからと姉を先に留学させた。
 収入の良い住込み家庭教師の職探しの面接の時、ドイツ語、ロシア語、フランス語、英語、ポーランド語を習得し官立中学校を金メダルで卒業した17才、と述べて面接官を驚かせた。田舎の農場に住み込みの家庭教師となり、10歳の女の子とその弟を教え、夜は農場や工場の従業員の子供たちの学校を開き、その後夜中まで自分の勉強をしたというのだから凄い。
 ■フランスに留学
 マリーの目的はフランスで物理学を学び、祖国に戻って両親と同じように教育者となることであった。
 1891年、24歳のマリーはパリのソルボンヌ大学に入学した。1893年に物理学試験を1番の成績で合格し学士号を取得した。次は数学を学び1894年に2番の成績で学士号を取得した。引き続きソルボンヌで中・高等教育教授資格取得を目指して、1896年に1番で合格した。
 しかし、ソルボンヌ大学でも女性は少数派で、卒業しても大学に研究の場はなかった。マリーは「焼き入れ鋼の磁化について」の依頼研究を受けたが実験の場を与えられず、物理化学学校の実験室を提供された。ここでピエール・キュリーとの運命の出会いとなる。
 ■ラジュームの発見
 当時の物理学の状況は、1895年にレントゲンがX線を発見し、1896年にアンリ・ベクレルがウランの放射線を発見した。「X線」は名前の通り謎の光線であり「放射線」も後に付けられた名前で、当時は不思議な光とされていた。
 マリー・キュリーは博士論文のテーマを放射線の研究に定め、ピッチブレンド(閃ウラン鉱)から放射性物質の分離を進めた。この研究にはピエール・キュリーも興味を抱き共同研究となる。
 ここで2つの放射性元素を抽出した。1つは元素番号84のポロニュームPo、もう一つが元素番号88のラジュームRaである。ポロニュームの名はマリーの祖国ポーランドに因んで命名された。
 ■ピエール・キュリーとの結婚、そして別れ
 ピエールはソルボンヌ大学で物理を学び、水晶の圧電効果を発見するなど研究実績のある物理学者であった。研究一筋の実験物理学者とマリーは1895年に結婚した。
 1903年に「放射性物質に関する研究」で、マリーは博士号を取得した。その年アンリ・ベクレルとキュリー夫妻はノーベル物理学賞を受賞した。
 ピエールはソルボンヌ大学教授となり、フランス科学アカデミー会員にとなった。マリーもピエール教授の研究室の実験主任となった。博士号を取得し、ノーベル賞を受賞してもマリーは教授にはなれなかった。
 1906年、夫ピエールは交通事故で急死する。イレーヌとエーヴの二人の娘を抱えて子育て・生活費調達・研究活動の三重の生活が始まる。
 ■ドイツとの戦い
 ソルボンヌ大学はマリー・キュリーを物理学講師に採用して、ピエールの物理学講座を継続させた。そして1908年に漸く教授となった。3年後の1911年に金属ラジュームの分離によりノーベル化学賞を受賞した。フランス科学者の有志がマリー・キュリーを科学アカデミー会員に推挙したが、保守派会員の縄張り争いと裏工作により落選したといわれている。
 マリーが子供の頃にポーランドを分割したドイツが、今度はフランスを攻撃してきた(第1次世界大戦)。放射線の知識豊富なキュリー夫人はレントゲン装置の調達や使用方法を指導し、自らレントゲン車を運転して戦地を従軍した。

 ■おわりに
 マリア・スクォドフスカは本来なら裕福で平和な家庭に育つところを、祖国ポーランドがロシアとドイツに分割されて、民族的戦いに巻き込まれ、貧困と闘いながらも逞しく勉学に励んだ。しかし、高等教育を受けたいという知的欲求は満たされなかった。
 漸くパリに留学するが屋根裏部屋での貧しい生活で、飢えを凌ぎながら勉学に励んだ。ソルボンヌでは外国人・女性物理学者として異端視されながらも人格高潔なピエールと出会い、知的好奇心の満たされる家庭を得た。しかし、夫を頭蓋骨破裂の交通事故で失う不幸に会う。一時は精神的にパニックに陥りながらも、夫の父親(医学者)に支えられ、ポーランドからも家族が駆けつけて元気を取り戻した。
 放射性物質の研究のため、最後は放射能障害により67歳で亡くなった。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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